木燃人の道行

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2012
04/12 08:00

726 大安寺(奈良の古寺巡り2)

2012.04.02(月)、満を持しての奈良行きである。今日は快晴、まだお礼参りとまでは行かないが、どうにか元気に暮らしていることの報告ぐらいの積りで、一年振り三回目の訪問である。それは最近「がん封じ」でかなり売れている・・・・


「大安寺」  (だいあんじ)
        高野山真言宗        
        奈良市大安寺町
        境内無料  駐車場無料

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 大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に熊凝道場を創建したことに始まる。やがて百済大寺、高市大寺、大官大寺と名と所を変え、平城京に移って大安寺となった。この間の事情を『三代実録』元慶四年(880年)冬十月の条には次のように記す。

 「昔日、聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇、十市郡百済川辺に遷し建て、封三百戸を施入し、号して百済大寺と曰う。子部大神、寺の近側にあり、怨を含んで屡々堂塔を焼く。天武天皇、高市郡の夜部村に遷し立て、号して高市大官寺といい、封七百戸を施入す。和銅元年平城に遷都し、聖武天皇詔を下して律師道慈に預け、平城に遷し造らしめ、大安寺と号す」 

 天平十九年(747年)に作成された
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(重要文化財・文化庁蔵)には、そもそも百済大寺の造営は、聖徳太子の遺言によるものであったとされている。

 舒明天皇がまだ田村皇子と呼ばれた頃、聖徳太子の病が重くなった為、推古天皇は皇子を見舞いに遣わした。太子は、自らが熊凝村に建てた精舎を、御世御世の天皇のために大寺となし永く三宝を伝えてほしいと皇子に遺言された。太子の付嘱をうけて皇子は舒明天皇となった時、百済川の畔に熊凝精舎を移し建て百済大寺とされた。

 これは九重の塔を持つ当時最大の大規模な伽藍であったとされる。ところが舒明天皇の時代には完成を見なかったようで、造立工事はその後、皇后の皇極天皇に引き継がれた。これには当時最盛期にあった蘇我氏はまったく関与していないようであり、太子の遺志を承けて天皇家が威信をかけて造営した最初の官立寺院であったといえる。
(寺のホームページより借用)

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この本堂でご祈祷を受けるのであるが、祈祷料は3千円から2万円まであるが、値段によって”効き目”にどれくらいの効果の違いがあるかは聞く事もなく15分間くらい、本当に効いてくれるようにと、神妙に手を合わせたのであった。

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この後、「福智院」に向ったが、それは次回に掲載したい。

                                           << 続く >>
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まとめteみた.【726 大安寺(奈良の古寺巡り2)】
2012.04.02(月)、満を持しての奈良行きである。今日は快晴、
[2012/04/12 08:16] まとめwoネタ速suru
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