木燃人の道行

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2012
04/20 08:00

732 海龍王寺 (奈良)

奈良の古寺めぐり (7)

今日は好天にも恵まれ、奈良市の中心部に近い所にあるが、余り名前の知られていないお寺を回って、ここが8寺目になる。(訪問日:2012.04.02(月))



「海龍王寺」  (かいりゅうおうじ)
          真言律宗  
          奈良市法華寺町
          拝観料¥500  駐車場無料    

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外塀は作りが古く、年代を経てかなり傷んでいるが、これが一層”古寺”としての雰囲気を高めている。

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飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建された。嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄昉が初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄昉が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われた。
平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退したが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34箇寺に選ばれた。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどる。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けることとなり、本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たすが、明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大きな打撃を受ける。
昭和28年に松本重信が特任住職として海龍王寺に入寺。かっては、貞治4年(1365)第13代信尊和尚、康暦元年(1379)第15代興泉和尚、長禄元年(1457)第28代元澄和尚、天文7年(1538)光淳和尚、明和3年(1766)高瑜和尚 と、海龍王寺から五名の西大寺を長老を輩出しており、真言律宗の中でも筆頭格の寺院であった輝きを取り戻すべく自身の手で復興を始め、昭和40~42年には「西金堂」「経蔵」の解体修理をはじめ「国宝・五重小塔の返還、西金堂への安置」、本堂の修理及び伽藍の復興に心血を注いだゆえに、現在の海龍王寺の姿がある。
隅寺という呼び名の由来については、江戸時代に書かれた大和名勝誌にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されている。

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国宝五重小塔(奈良時代の作とか)

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上の五重小塔を収める「西金堂」

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お隣の法華寺の子院とも見られる、正に"古寺”らしい雰囲気をもち、ひっそりと佇み、幾多の栄枯衰勢を経てはいるが、古き奈良のよき時代を思わせる寺であった。

                                   << 続く >>
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